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    ストーリークリエイト雑感

    kobayashi  2011年12月13日(火曜日) 23:27  
    私の父は伝統芸能である能、狂言の研究者で、十数年前までは芸術祭の演劇部門の審査員とかをやったりしていた。
    古典芸能が専門でも、やはり演劇というジャンルでは、現代劇とも仕事上のつながりがあるようだ。

    そんな父の学者仲間で「せりふの時代」という現代演劇雑誌を定期購読している人がいて、「いらなくなったのだが、どこかもらってくれる人はないか」と言っていたらしい。で、父が気を利かせて、私のためにもらってくれることにしちゃって、大量の演劇雑誌が私の部屋に送られてきた。

    段ボール二箱分。若干引いた。

    しかし、まあ、演劇人としてはいい肥やしにはなるわけで、少しずつ、興味のあるところを拾い読みしている。

    大体、こういう専門誌、というのは、マニアしか食いつかないような内容の特集と、最新の作品(演劇雑誌の場合、脚本)が冒頭に載っていて、あとはマニアしか知らない業界有名クリエイターとか批評家のコラム、で、後半にまた作品が2、3個載っている、という構成になっている。演劇以外の専門誌でも、だいたい同じである。

    で、演劇なんぞは特に狭い世界で、演劇人として有名な人、などというのはほとんどは劇作家・演出家で、それも数はあんまりいないので、どういうことになるかというと、

    【例】(これは小林のイメージですが)
    目次1 特集「劇作の未来」 対談 劇作家兼演出家A VS 劇作家B
    目次2 『(一か月前位に上演された最新の台本1)』作:劇作家B
    目次3 第2特集「演出メソッドの教育」寄稿:劇作家兼演出家A・演出家C・劇作家兼演出家D
    目次4 コラム『○○○○』演出家C
    目次5 連載『劇作教室』劇作家兼演出家D
    目次5 『(一か月前位に上演された最新の台本2)』作:劇作家兼演出家D
              ・
              ・
              ・

    わかるだろうか? 要するに300ページ余の雑誌でいろいろコンテンツはあるが、結局A,B、C,Dの4人で内容ができあがっている、ということだ。
    まあ、これは少し誇張して書いているが、概ねこんな感じである。

    ただ、マニア誌というのはたぶんどれもこんな感じで、演劇雑誌のこの点を否定したくて書いたのではない。むしろ、こういうのを面白いとさえ思っている。

    何が言いたかったかというと、こういう状態だと、同じ人間が、

    対談・コラム=「演劇に対する自分の意見」つまり「批評」



    脚本作品=「作品」

    とをほぼ同時期に、発表することになる。

    私がいくつか拾い読みをしていて最初に思ったことは、「この人、批評の時にはたいそうなこと言ってるけど、同時期に書いたはずのこの戯曲、たいして面白くないなあ」であった。

    最初はその程度の感覚であったので、「たいそうなこと言わなきゃいいのに」とか思っていたが、しばらく何冊も読み続けると、そういうことではない気がしてきた。

    そもそも、雑誌に登場している作家は軒並みそういう「たいそうなこと言ってるけど、脚本はさほどでもない」状態である。また、細かいことを言っていくと、少し前に彼が「今、こういうことが重要だと思っている」ということが、直後の戯曲にまったく反映されていない。などなど言い出したらきりがない。

    それで、気がついた。

    「創作」と「批評」というのは、そもそも統合されるはずのないものなのだ、ということだ。

    井筒監督とか、昔は大嫌いだったが、そういう観点で見ると、納得できる。
    嫌いだったころは「あんだけ人の映画こき下ろして、お前の作品そんなにおもしれえはずねえじゃんよ・・・」と思っていたが、たぶん井筒監督は人の作品を批評する時に、自分はその課題点を払拭した作品を作れる、とか、そこまで考えていないのである。いや、考えていたら、批評はできないのだ。

    すみません、井筒監督の話は書きたいから書いただけで、余計だったが・・・。

    根源的な能力、知識、ベクトルなどは創作者も批評家もほぼ同じと言える。しかし、やっている作業がまったく違うのである。

    批評はすでにあるのもを、分解し、演繹・帰納し、それに他の知識を付け加えたりして、何らかの結論を出す作業なのに対して、創作はそもそも何もないところから何かを作り出す作業だ。
    批評家が医者だとしたら、創作者は「生命を作り出す研究をしている人」くらい違う。

    だから、それらを一人の人間の中でうまく統合できないのは、仕方ないのだ。

    それって単なる開き直りでは?と言われればそれまでだが、なんというかなあ… 単純にそうとも言えない、と言うことを言いたいのだが、うまく説明できない。

    から、続く。

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    俺ら東京さ行ぐだ

    kobayashi  2011年12月11日(日曜日) 12:44  
    前回の続きなんですが。

    吉幾三、暴力団と食事しちゃったね。

    しかし、めげずに前々回の「俺ら東京さ行ぐだ!」の続き。

    笑い系のストーリークリエイターの「創作のパターン」みたいな言い方でとりあえず終了したが、今日までの間に冷静になって、「パターン」とまでは言えない気がしてきたので、あくまで自分の場合、というつもりで述べる。

    私自身が劇作をしているので、劇作基準で考えてみる。

    基本的に演劇的なもの、というのは何らかのダイアローグ、いわゆる会話から成り立つ。一人芝居も誰かに向けての独白と考えれば広義にダイアローグと言えるし、バレエなどの舞踊劇であっても、セリフになっていないだけで二人以上の登場人物の間に肉体表現でのやり取りがあれば、それはやはりダイアローグと言える。
    それぞれにあるのは、何を表現の主体として創作するかで、一番シンプルなのはセリフで進んでいくストレートプレイで、音楽主体ならオペラ、ミュージカル舞踊ならバレエとか、そういう風にジャンル分けされる。

    で、「笑い」が主体のジャンルというのも存在する。コント、とかコメディと呼ばれるものだ。

    ただ、この「笑い」主体のものが他のジャンルのそれらと大きく異なるのは、巷で「感動」と思われているもの(例えば悲しくて涙が出るとか深く心の奥に突き刺さるとか)と同時に働きかけることが困難であることだ。本当は「笑い」も感動の一種なのだが、どうもそう解釈されていないらしい。

    セリフで、音楽で、ダンスで「感動」はできるが、笑いを見て「感動」はできないのが普通だ。
    逆に、「笑い」だけ、他の感情比べて特異なので、それだけで作品を作ることも可能、ということもある。

    そうすると、笑いのクリエイターは、まず「笑いだけ」の作品にするのか、あくまで笑いを主体にしながら何らかの「感動」を与えられる作品にするのか
    ということから選択する必要がある。

    ここからが厄介なのだが、「ストーリー」の体裁をとっていると、なぜだか知らないが「笑いだけ」の作品というのは、そうでない作品に比べ、観客に物足りなさを与え、一段低く見られる場合がある。
    これは全くいわれはないのだが、そういうことがあるのは事実だ。

    クリエイターからすると、作品は子供と一緒だ。
    例えば、良かれと思って子供にテレビを見せないようにしたら、学校で話題についていけなくていじめられた、というのは親としては困ってしまう。
    だから、テレビなんか見てたらバカになると知りながら、多少は子供に見させる。
    それと同じ?で、笑いを主体にしたストーリー創作をするクリエイターは、いわれのないそしりを免れるためにチョコっと感動の要素を入れたりする。

    で、そうすると、今度は、笑いと感動の配分をどのくらいにするか?という配分を決めなければいけない。

    しかし、自分はあくまで「笑い」を主体に書くつもりで、とにかくたくさん笑わせたいんだ、となると、当然「感動」の配分は少なくなる。

    しかししかし、そこで少ない量なりの少ない感動だと、先ほどの「いわれないそしり」を受けてしまうかもしれない。

    そうすると、少ない配分で、見ている人を一気に感動に持っていく、そういう作品ができれば、一番いい。

    と、こういうことだ。

    それを私は「俺ら東京さ行ぐだ」に感じて、秀逸だ、と評価しているのである。

    ただし、これはあくまで「笑い」を主体にした作品を作る、という前提でのことで、クリエイターは、それ自体を選ぶことができる。

    それこそがクリエイターの自由なのだ。

    幾三も暴力団と関係があったことだし、私も、いつまでも「俺ら東京さ行ぐだ」ごときに感心していてはいけない。もっとすごい作品を作れるかもしれないのだから。

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    自作ラーメンマップ

    kobayashi  2011年12月10日(土曜日) 01:45  
    最近、いろいろと忙しい。

    前回の続きを書こうと思っていたのだが、「笑いの構造」については、いろいろ考えていたらまとまらなくなってしまった。
    から、続きはまた今度で。
    全然違う話だが、「目黒ラーメンマップ」を作った。
    だからなんだ、と。ええと、特に・・・。

    最近、月に一回、妻とお昼にラーメンを食べに行くことになっている。
    いつも写真を撮り忘れてしまいブログには上げ損ねていたが、今までも何軒か食べに行っていた。

    目黒近辺のラーメン屋を、食べて回るわけだが、とりあえずどんくらいあるのか、と一覧表を作ってみた。

    いや、本当は忙しいのだ。忙しい合間を縫って作った。

    で、一覧表を作ってみたら、目黒のラーメン激戦区ぶりはどのくらいなのか?可視化したくなった。
    要はマップを作りたくなった。

    皆さんご存知か知らないが、グーグルマップなど、フリーの地図サービスは、大体、一作業で一件のポイントしか表示できない。
    でも、今回は一つの地図にたくさんのポイントを表示し、激戦区ぶりを表したい。
    同じようなことを考えている、もっと賢い人が、そういうフリーソフトを作っているはず、と検索する。
    意外と無くて30分くらいかかった。いや、ほんとに忙しいのだが…。

    で、発見したソフトで、表示するには、今回ピックアップした全店舗の住所が必要なことに気がついた!当たり前だが。
    で、32店舗分、全部の住所を検索、入力。いや、ほんとに暇じゃないんですケド…。

    そして、件のソフトに住所を入力して、マップ完成…!
    しかし、ポイントにお店の説明コメントなどが入っている訳ではないので、本当にこの地図だけでは「激戦区だ」ということだけしか分からない…。
    なんだこの、これに費やした時間は。いや、ほんとにそんな時間ないのに、僕…。

    無理やりつなげるが、芝居をやるのも、こういう部分はある。それをやって何の役に立つか不明だが、手を抜かずにやり切る。
    そういう側面だ。

    私は、そういうことがすきなんだと思う。いや、もうヒマ人ですかね、これは。

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    俺ら東京さ行ぐだ

    kobayashi  2011年12月04日(日曜日) 17:58  
    ニュース
    諸星和己が吉幾三“カバー”「地デジの対応なってね〜」

    だ、そうである。

    諸星和己がその続編曲(?)を作詞、発表し話題になっているようだ。

    諸星和己という人は、ヒカルゲンジのころはあまり好きではなかったが、その後あんまり売れなくなってからは、理由はないがなんとなく好感が持てるようになった。

    そして、今回の件で、さらに私の中で、彼の評価が上がった気がする。

    なぜなら私は「俺ら東京さ行ぐだ」という曲が好きだからである。



    いや、カラオケとかで歌うわけではない。というか、歌ったことはたぶんない。

    この曲の構造が、そのリリース当時から自分に響くものがあり、気に入っているのである。

    この曲は田舎者の青年?が東京への夢と希望を語る、という、概ねそういう内容になっている。
    東京は素晴らしい、俺はいつか必ず東京に行って一旗揚げるんだ!というわけだ。

    内容はない。延々、その、その青年の田舎への愚痴と、東京への想いをおもしろおかしい調子で語っているだけである。

    しかし、秀逸な部分が一か所だけある。

    さんざん、青年の東京への想いを歌い上げ、いかに青年が東京に憧れているかを並べたてながら、最後の4秒、ラストワンフレーズで、オチ的な笑いを誘いつつも
    その青年の、いや、人間の未来への願望の実態というものを突き付け、考えさせる部分である。

    オラこんな村ぃやだぁ〜
    オラこんな村ぃやだぁ〜
    東京へでるだ〜
    東京へ出たなら、ゼニコぁ貯めて

    東京でベコ(牛)飼うだぁ〜

    この「東京でベコ(牛)飼うだぁ〜」である。

    もちろん「おいおい、わざわざ東京まで出て、牛飼うのかよ、意味ねえじゃん(笑)」というオチでもある。

    が同時に、人間の願望というのは、現在の自分を起点にしか考えようがないのだ、という時空的な限界を語っているのである。

    いくら未来の願望を語っても、それは現在の願望である。未来になって、そもそも現在とベースになる前提自体が変わってしまったとき、自分がどんな願望を持つのかまでは想いが及ばないのである。

    いくら限界なく羽ばたこうと思っても、今の自分の器、という牢獄から逃れられない。
    それこそ人間の煩悩の一つの様相であり、アホなことばかり言っていた歌が、ここで一気に仏教的思想にまで昇華する。脅威の大どんでん返しのワンフレーズだ。

    いやいや、そこまで考えるのはあんただけだよ、とお思いの方もあろう。

    しかし、全体的にあんなに意味のない曲が、あそこまでヒットしたのには、今の私の文章ほど明確でないにしろ、あのワンフレーズで何か深いものを感じる人が、少なからずいたからだろうと思う。

    そして、じゃあ、この曲の作詞・作曲家でありパフォーマーである吉幾三はそこまで考えていたのだろうか?

    感覚的にであって理論的にではないかもしれないが、幾三は確実にそこまで狙って書いた、と私は確信している。

    なぜなら私も「笑い系」のクリエイターの気持ちがわかるからだ。

    気持ち、というか、「笑い系」のストーリークリエイトをする際の、パターンがわかるから、である。

    やべえ、「俺ら東京さ行ぐだ」でここまで話が長くなってしまった。。。。。

    続きはまた今度。俺ら、会社さ行かねば。


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    山種美術館

    kobayashi  2011年11月28日(月曜日) 18:09  
    こないだ、猫カフェに行ったのと同じ日に、山種美術館という日本画の美術館に行ってきた。

    ベストオブ日本画家、とでもいうべき特設展で、たくさん有名な日本画家の絵があった。よく歴史教科書の資料集で見るみたいな写楽とか、明治初期のでっかい屏風絵とか、そんな感じ。

    なんとなく色が薄くて、のっぺりした感じの絵がたくさんあるという印象しかなかったが。

    やはり、概ね近代以前の絵なので、我々近代人が考える「アート」性とは違うものを軸に創作されているように感じた。近代人の考える「アート」性とは、その作品が持っている魂ともいえる創作根源が、作品の見え面とは別に宿っている、ということではないかと。
    そういうものでないと、迫りくる迫力を感じられない、というのが近代人の頭の構造になっちゃってると思うが、とにかく、そういう迫力みたいなものは、どの作品にも感じなかった。

    要するに近代とそれ以前では、絵画の(アートの、と言ってもいいかもしれないが)基準が、少し今とは違ったのだろうと思う。

    西洋画でもそれは同じかもしれない。

    さて、今回、菱田春草という画家の作品が展示してあって、そこに「結城正明に師事した」とあったが、この「結城正明」というのが私の爺さんの爺さんである。なので、無粋な話だが、その名前を見つけてちょっとうれしかった。

    私は芝居なんぞをやっているし、私の父は、日本の伝統芸能である「能」と「狂言」の研究などを生業としているが、実は爺さんは絵描きでそしてその爺さんである、先の結城正明も画家であった。

    結城正明というのはかなりマニアしか知らない日本画家だが(現に菱田春草のプロフィールには載っているくせに、作品は一点も展示なし)江戸城本丸内の絵を描いたり、現東京芸大発足期の講師だったりとそれなりの画家だったようだ。

    狩野芳崖の弟子で、岡倉天心などとはたぶん兄弟弟子だと思う。

    親父が子供のころは、その辺の超有名画家の絵が何点かあったそうだが戦争で焼けちゃったのと、家が貧乏すぎて売ってしまったのとで、私の記憶にある範囲では、岡倉天心からもらったという、これまた日本美術史の有名人であるフェノロサの絵の具というのだけ見たことがあるくらい。それも、作品ではなく「絵の具」だからもう、うす汚れたチューブ状のものにカスカスになった粉みたいなものが入ってるだけの、なんだかわからないもので、それさえも、どっかの美術館にタダで上げてしまった。

    もう、モッタイナイオバケ100匹?に占拠されてもいいくらい、もったいないことをする家である。

    まあ、美術館に上げてしまう、という我が家の精神は好きだが。

    いや? 上げてないのかな? 謝礼ぐらいもらってるのか?

    くそぅ、俺にくれればいいのに。

    でも、まあ、誇れる血筋をもらってるので、まあ、いいか。






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    猫カフェの考え方

    kobayashi  2011年11月25日(金曜日) 10:23  
    先日、猫カフェに行った。

    山種美術館に日本画を見に行こうと、妻と歩いている途中、恵比寿で見つけた。
    で、帰りに寄った。

    妻はとにかく一度行ってみたかったみたいで、行く前からかなりテンションが上がっており、店に入ってしばらく、大はしゃぎであった。

    が・・・。

    二人ともすぐに冷めた。

    一言で言うと、「キャバクラ」とか風俗に似ている。

    よく女性が「彼女がいるのに、キャバクラとか行く意味が分からん」とか言うが、猫を通してその意味を知った。

    実は、我が家では猫を飼っている。
    猫カフェには猫はたくさんいる。そこそこに人間になれていてかわいいが、しょせんは他人?である。

    23匹いた猫のどれも、印象としては「そっけない」。

    性格の悪いウチのドラちゃんでも、さすがに飼い主に対してここまでそっけないことはないし(当たり前だが)、
    ドラちゃんと触れ合っている分には、一つ一つに、今まで積み重ねてきた歳月を感じて、また、そこがいいわけだ。

    猫カフェの猫と、我々夫婦の間には、何もない(当たり前だが)

    私も妻も、20分前後で冷め「早く帰ってウチのドラちゃんに会いたいな〜」と思い始めた。

    結論として、猫を飼っている人は猫カフェに行く必要はない(3度目の当たり前だが)


    猫カフェは、猫を飼いたいが何らかの事情で変えない人が行き、何度も通う中で、お気に入りの猫と仲良くなる、とういうところのようだ(現にそんな風情のお客がいた)。

    風俗は、彼女や奥さんが欲しいが、何らかの事情でモテない人が行き、足しげく通い大枚をはたくなかで、お気に入りの子を作っていく。

    う〜ん、再度、風俗に似ている。


    でも、一応猫カフェ業界の名誉のために、「我々が行った店が、たまたまよくなかった」可能性についても考えてみた。

    その店で一つだけ問題だったのは、「猫カフェ」の「カフェ」の部分が抜け落ちていた、といことだ。
    「猫ルーム」だった。

    カフェ、というのはそれないりにおいしい食べ物と飲み物がある、「人」がくつろげる空間のことを言うと思う。

    我々が行った店は、飲み物はマックバリにクリアカップに入って出てくるし、空間は「猫」には心地よさそうだが、人には全くいごごちの悪いところだった。

    20分ほどで我々夫婦がそわそわしちゃったのは、そういうことも関係しているだろう。

    逆に想像すると、カフェとしての体裁を整えている店なら、それ自体をそれなりに楽しめたろうから、20分そこそこで、そわそわしちゃうことはなかったかもしれない。

    などなど、考察した上で、1回の経験で恐縮だが、私なりの猫カフェ注意事項を。

    1、猫を飼っている人は、よほどの明確な理由がない限り、行かない方がいい。
    よほどの理由の例:飼っている猫とは別の特定種の猫を見てみたい、触ってみたい、そしてその猫がその猫カフェにいる事前情報がある。
    つまらなくてもいいから、とにかくどんなところか一度行ってみたい。など

    2、行く前にインターネットなどでよく調べ、カフェとしても楽しめるところを選択する。
    そうすれば猫の反応がイマイチだった時のダメージが少ない

    3、できれば付き合い始めのカップルはいかない。
    「ここでデートして正解だったのか?」というモワ〜っとした感じになったら取り返しがつかない。
    猫という気まぐれな動物にこれからの二人にとって重要な想い出の1ページをゆだねるのはリスクが高すぎる。

    4、3と同じような理由で、1人で行くのも多少危険である。

    5、できれば3人以上で行く。そうすると大概のことはなんとなく盛り上がれる。


    いろいろ書いたが、猫が好きでこれから飼ってみたい、なんて人は、一度行ってみるのはお勧めだ。

    猫を引き取ってもらうことを前提にしている猫カフェもあるようなので、興味のある人はいろいろ調べて
    行ってみてください。

    僕らはもう行きません。


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    便所の立札から考察

    kobayashi  2011年11月23日(水曜日) 08:52  
    「トイレの清掃中 ただ今男性社員が清掃中です」

    駅の女子トイレに上のような立札がある。

    最近この手のをよく見る。昔からあったかな? そんなことないような気がするのだが。

    昔からにせよなんにせよ、そもそもダメなんじゃないの?
    と、思ってしまう。

    用事があれば何でもいいのか? と。

    いや、モラリスティックな意味で言ってるのではない。

    なんというか、この中途半端さが、なにか事件を生んでしまうのではないかと。

    「トイレの清掃中 ただ今男性社員が清掃中です」
    「トイレの精密機械のメンテナンス中 男性がメンテナンス中です」
    「トイレの美化推進中 ただ今男性社員が監視しています」
    「トイレでの痴漢事件防止のため、痴漢ではない男性社員が24時間体制で監視中」
    「極秘事項のため内容は言えませんが、男性社員が常時監視中」
    「極秘事項のため理由は言えませんが、場合によっては個室も抜き打ち点検中」
    ・・・・

    用事があれば男性も入っていいとなれば、なんでもアリになってはしまわないか?

    たぶん性別を限定するとなかなか清掃員のシフトが確保できず、管理が面倒だからだと思うが、
    なんでそういうところを手を抜いちゃうのか?

    いや、私はフェミニストなわけではない、そういうことで言ってるんじゃないんだが・・・。

    なんか気持ち悪いのだ。

    そもそも「男性社員が清掃しています」から、なんなのか?
    「いやなら入るな」という意味なのか? というのも気になる。

    こういうことで日本人論を語るのはあまり好ましいことと思わないが
    「だから、○○してください」と明確に示さないのは、どうも日本人の特性な気がする。

    極端なことを言うと「嫌な場合は入らないでいいですよ」と書いていないと、「嫌だ」
    という感情を持ってはいけないことなのではないか?と変な気を使う人は思うのである。

    書いていないんだから明確に言ってないのだが、そういうチョイス自体がありえない、
    という印象を与える。
    これが「書かない」ということの、極論、日本人のずるさのような気がする。

    そして、変な気を使う人はイヤイヤながら入ってしまう。いや、大半の日本女性は入ってしまう。

    で、なにか起こってしまう。

    そうすると駅側はこういうのだ

    「嫌なら入らなければいいのに」

    ・・・そんな気がする。

    ここまで考える私は考え過ぎとは思うが。




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    猫がなついてきた

    kobayashi  2011年11月20日(日曜日) 12:57  
    今までも、別に無視されていたりしたわけではないが、最近、猫が今までよりなついてきた。
    もう飼いだして3年以上経つから、「え?今更?」とお思いかもしれないが、
    うちのヤツは、5か月くらい野良生活をしていたので、そもそも飼い主になれるだけでも時間がかかった。普通になでたりできるようになるまで半年以上かかった。もともと人懐こい性格ではないし、6月、引っ越した際、私が嫌がるのを無理やり捕まえて
    ケージに入れたのがトラウマになったようで、いったん慣れてきていたのが、一度ちょっと後退した。そんなこんなで、私などは家にいる時間が少ないので、ついこないだは、会社から帰ると毎晩「誰だ?」みたいな顔をされていた。

    それが最近、帰宅すると、まあ、普通に鳴いたりしながら、スリスリしてくる。

    理由は明確で、最近、遊んでやるからである。

    食後、ゴムひもの先にピンポン玉がついたみてえななんか変なモノを適当に振り回してやる。ヤツはそれにアホウみたいにとびかかっては、じゃれつく。これを15分くらいやると、なんらかすっきりするみたいで、それで、ヤツは私を「有益なヤツ」と判断したのだろう。

    猫なんて単純だ。

    と、言ってみて、ふと、考える。

    ヤツは言葉がワカラナイ。また、お金の価値もシラナイ。
    だから、私がいくら耳触りのいいことを言っても惑わされないし、お金でツルこともできない。
    だから「こいつは自分のために、何をしてくれるのか」という行動しか見ない。それだけで信頼するか否かを判断している。

    で、ここまで考えて。

    人間も結局同じ、いや、同じであるべきなのではないか、と思うのだ。

    耳触りのいい言葉で相手が信頼にたるか判断しようとするからだまされるのである。

    お金をくれたらいい人と思っちゃうから、ひどい目に合うわけだ。

    猫の、少なくともウチの猫の思考は間違っていない。

    相手が信頼に足るかどうかは、そのモノの行動だけで判断するべきだ。

    そして、自分が他人に信頼されたい、と思う時も、それを基準に考えるといいのかもしれない。

    まあ、いずれにせよ、ウチのドラちゃんは、かわいい、という話です。

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    ランチイベント

    kobayashi  2011年11月15日(火曜日) 11:24  
    バーガーキングの「ワッパー食い放題」に行ってきた。

    11月1日〜15日のキャンペーン。もともと、行くつもりで今日、休みを取った(今務めている会社は年中無休で土日は出勤必、な会社。ランダムシフトで、平日にお休みを取る感じです)。

    14:00からのイベントなので、13:00過ぎに家を出て、奥さんと
    一緒にゆっくり散歩しながら恵比寿ガーデンプレイスのバーガー
    キングへ。

    最初にセットを注文した時にレシートの打刻時間から30分以内
    という制限があり、おかわりを注文、調理する間の待ち時間は、
    その制限時間に含まれてしまうため、なるべく空いている時間が
    良いだろう、とその時間を狙った。

    さて、注文して出てきた、ワッパーのLセット。奥さんは普通の
    バーガーサイズのワッパージュニアのMセットを注文したので、
    比較してみたが、ワッパーは結構でかい! 普通のバーガーの
    1.5倍はある感じ。食い放題なんだから、最低でも3個は食いたい
    なあ〜 と思ったが、多少ビビってしまった。

    とにかく、かぶりついたが、ビーフが炭火焼?テイストでこんがり
    焼かれていて、香りがあり、うまい。とにかくでかいバーガーなので
    食べごたえもあり、悪くない。確かバーガーキングって自分が学生
    のころ、20年くらい前に初上陸して、一度撤退して、最近、再度上陸
    してるっていう経緯があったはず。根強いファンがいたのではないかと
    勝手に想像してしまう、なかなかのテイスト。

    そんなこんなで食べてみるとうまいので、結局3個を完食。

    1回目のおかわり時にかなり待たされたので、制限時間もいっぱい
    だった。

    ただ、4個目いってたら、もう、苦痛になってたかも。3個までは
    おいしく食べれた。

    で、隣のクリスピードーナツでデザート。まだ食えるのかよ!
    と思ったが、食えた自分。しかし、消化器系は限界です!

    今日行ったのは先述のとおり、恵比寿ガーデンプレイスの
    地下一階にあるお店だが、バーガーキングとクリスピードーナツ
    が同一敷地内にあって、ガーデンプレイス内の外資系企業の外人
    が来てたりして、さながらリトルアメリカ。店員がもし全員外人
    だったら、もう、海外旅行です。

    ちなみに、クリスピードーナツってのが、なんで日本上陸の時にあんなに
    大騒ぎになったのか、私にはいまだにわからない。

    メチャクチャ甘いだけの普通のドーナツ、なだけで、メニューも
    ミスドの豊富だし、ちょっと変わったドーナツ、ってことなら
    ドーナツプラントの方がバリューがある気がするのだが。

    ただ、あの当時、並んでる時に配ってるできたてのプレーンドーナツ
    はうまかった!
    でも、注文するドーナツはすごく甘いミスド、としか思えない。どんなもの
    でもでき立てはおしいわけで。凄腕のPR会社がついてたのか、社内にそういう
    ノウハウがあったのかわからんが、日本上陸の時のプロモーションがうまかった
    ということだろう。

    話はそれたが、なかなか楽しいイベントランチ&おやつだった。。

    今日は晩ごはんはいりません!

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    いろんな事情で ショウジョウジダイを終えて・・・その2

    kobayashi  2011年11月05日(土曜日) 02:50  
    ショウジョウジダイを終えてしばらくして、私はいつもどういうつもりで作品創作をしているのか、ということについて再認識することがあった。

    最近読んだ本に、こういうことが書いてあった。「もしあなたが、お金がいくらでも出てくる打出の小槌をもっていたら、何を目標に生きますか?」

    ふと、「『生きているだけでラッキーですよ』ということを、皆に伝えること」と思い浮かんだ。

    この本は人生の成功ノウハウを語る本で、「お金のことばかり考えているから成功しないのだ、本来の人生の目標を目指せば成功する」みたいなことを言いたくて上記の文章が出てくる。いやいやそんなに簡単ではないだろう、ずいぶん無責任な成功ノウハウ本だ、とも思うが、この質問は、自分がなぜ表現活動をやっているのか? ということを考えるきっかけになった。

    以前も何かで書いたが、小学生の時に5歳年上の私の兄が死んだ。兄は中学生になったばかりだった。兄はとても優しくて、争いを好まなかったし、弟を顎で使うようなことは一切なかった。変な表現だが、非常に「人格者」な子供だった印象が強い。兄がそんな人間だったので、私と兄の間ではっきりと競争が行われたことはない。しかし、私には相応のライバル心はあったようで、それが兄の死後に出てきた。

    以来、私のライバルは常に「死んだ人」である。

    私からすると、「死ぬ」というのは「勝ち逃げ」である。いや、死の直前に勝っていなくても、死ねばめったなことがない限り悪口は言われないし、悼まれ、慈しまれる。そう、「勝ち逃げ」でなく「逃げ勝ち」である。生きている方が絶対に大変で偉いのに、いつも死者ばかりが尊ばれる。そんなことに、小さい時から憤っていた。

    要するに私は生きている人には頑張ってほしいのである。
    と言っても、これは通常の慈愛や博愛と異なっている。生きている人に「生きていてよかった」と言ってもらわないと、私は結局兄に負けたことになる。私はそれが嫌なだけなのだ。

    目の前にいる人には、その時だけでも何としても楽しんでもらわないことには気が済まない。しかしそれは、目の前の人が楽しんで、「生きててよかった」と思ってるポイのを確認して、最終的に自分が安心するためである。

    非常にわがままな慈愛である。全く社会性がない。
    社会性はないが、とにかく目の前の人を楽しませることに関しては、人一倍の動機と探究心がある、ということだ。

    まあ、とにかくこんなだから、私は死ぬまで表現活動をやめないのでなはいか。「逃げ勝ちした死者」との勝負は自分が死ぬまで終わらないからだ。

    ということで、今後もたぶんずっと続けると思いますので、皆様よろしくお願いいします。

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